ブトゥアン (Butuan City)
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「ブトゥアン」の名の由来は不明だが、酸っぱい果実の「バトゥアン」(Batuan)から来ていると信じられている. 語源の他の説では、この地方を支配した首長「ダトゥ(首長)・ブントゥアン」(Datu Buntuan)から来ているというものもある.
10世紀ごろにはすでに、ブトゥアノンはチャンパ王国(ベトナム南部)やシュリーヴィジャヤ王国などとの交易を行っていて、11世紀までにはフィリピン諸島の交易・商業の中心となっていた. ブトゥアン市リバタッド、アンバガン(Ambangan、現Ambago)近くでは9隻のバランガイ(交易用のボート)が発掘されている. 西暦1001年の北宋宋史の記録では、Kiling国王が統治するヒンズー教仏教の小海洋国家と記述されている. 1011年、Sri Bata Shaja国王の時代に特使Likanhsiehを北宋に派遣、チャンパ王国と同等の地位を手に入れ、ルソン島のなどを差し置いて、比中初の国交樹立となった. Likanhsieh氏は、金製品、白龍彫、香辛料、奴隷を朝貢し、宋皇帝真宗を驚かせた. 中国との友好関係は、元朝の頃ピークとなったが、最後の国王Siagugが1521年フェルディナンド・マゼランとの流血契約によりスペインに屈して同王朝は終焉を迎えた.
また西洋人の来訪もフィリピン諸島の中では早かった. フィリピン最初のミサがどこで行われたかについて、ブトゥアン市のマサオ地区か、レイテ島沖のリマサワ島かで論争もある. しかし、フェルディナンド・マゼラン一行が1521年にアグサン川河口に碇を下ろし、これを記念してミサを行ったことは確かである. 以後、この地はスペイン植民地支配下のミンダナオ北東部の商業の中心となってきた.
太平洋戦争中、1943年半ば、ゲリラ軍が日本軍部隊を襲ったことをきっかけにブトゥアン市街は破壊された. 1948年10月20日、再建途上のブトゥアンは火災で再度全滅した.
1950年代から1970年代半ばにかけての材木産業ブームはブトゥアンを「南部の木材の首都」とし、他の産業の発達や他地域からの住民の流入につながった. けだるい田舎町は騒々しい都市へと変貌した. 木材産業の発展により、1950年8月2日には国会の法案で市(chartered city)に昇格している. さらに1985年には人口増加と年収増加によって「高度都市化市」(highly urbanized city)へと昇格した.